茶道というみち 花のよろこび

「茶は服のよきように点て、炭は湯の沸くように置き、花は野にあるように、さて、夏は涼しく冬は温かに刻限は早めに、降らずとも傘の用意、相客に心せよ!」
或る日、弟子の一人から、茶の湯で心得ておくべきもっとも大切なものは何でしょうか?」と尋ねられた千利休が答えたのが先の言葉でした。これは「利休七則(りきゅうしちそく)とされ、お茶室で耳にされる方も多いことと思います。
今回は、そのなかの「花は野にあるように」について、気づいたことを書いておきたいと思いたちました。
野にあるように、という言葉は、一見、無造作ですが、とても深い。言葉として、だれにもわかるし、そのままの解釈ももちろん成り立つかと思います。ただ、その解釈はあまりにも「ありのまま」すぎるのではないか、利休は、野に咲いている様子のまま活けるとは言っていないのではないか、と解釈する方の方が多いように感じます。
たとえば、「利休が指し示しているのは、現象界そのままの形を言っているのではない。魂のおきどころを云っているのである。(略)表面に、技巧なくして、魂の技巧をもとめたもので(略)、学ぶのではなくして、その裏面にひそんでいる内容を、何とでもして、感じたいものである。」(『利休の茶花』湯川制著)といった、解釈の道筋を示す著書は数え切れないはずです。
そうした論調をもってすると、「ありのまま」とは、何をもっていうのか、といった各々の「ありのまま」を問うことにまで遡り、解釈はさらに際限なく拡がっていくことになる。そして、わたしの場合、人それぞれの解釈でよいということに落ち着きます。つぎに、わたしは、わたしの解釈に辿り着いたのです。
「花は野にあるように」
どんなに真意を探し求めても、活ける者の側には、答えはない、という事実。花の心は、花のものである、ということです。大自然のなかで、太陽の光や風とたわむれ、いかに楽しく、よろこびに満ちていたことか。その花のよろこびをよろこびとする、その気持ちこそが、大事であると心得よ、と。利休から手渡されたように思いました。花がよろこんでいるように、活ける。
*旧暦と暮らしのMail Magazine 「カランドリエ」vol.128霜降の号/令和六年九月二十一日 2024.10.30号より転載